吉田松陰の名言・思想など、今現在もその思いは語り継がれています。
でもなぜ吉田松陰の名言・思想・教えがこんなにも有名になっているのか?
それは、松下村塾に通った塾生たちが、松陰の教え・思想を引き継ぎ、
日本の歴史を変える主役となり、その後の日本に大きな影響を与えたからです。
松下村塾の塾生には、高杉晋作(奇兵隊の創設)・久坂玄瑞(尊王攘夷の中心人物)・伊藤博文(初代総理大臣)・山縣有朋(三代・九代総理大臣)・山田顕義(日本大学創設者)などなど…
歴史の中心人物となった者や、総理大臣・国務大臣・大学創設者など、
数多くのエリートを輩出しています。
吉田松陰が松下村塾で教えた期間は、たった二年九ヵ月しかなく、その塾生は約百人程。
短い期間で、約百人からこれだけのエリートを輩出していることにも注目して頂きたい。
吉田松陰 「人を動かす天才」の言葉 には、吉田松陰の歴史的背景なども
詳しく記載されており、どういった経緯でこの言葉を発した (書いた) のか?
どんな思いだったのか?といった、松陰の思いや背景も見えてくる本で、
学ぶことはもちろん「吉田松陰の歴史について詳しく知りたい!」
という方にもオススメできる本です。しかも安い。
吉田松陰の生涯と思想
吉田松蔭は五歳のとき、父である「杉百合之助」のすぐ下の弟・大助が養子に出て相続していた吉田家の仮養子となった。吉田家は代々、山鹿流兵学師範をもって毛利家に仕える家禄五十七石六斗の家柄で、大助が病没し、松蔭は六歳で吉田家を相続することになった。
吉田家と杉家は婚姻・養子縁組を繰り返した家同士だったので、幼い松蔭は
吉田家に行くことなく、生涯を杉家の一員として、父母のもとで過ごした。
吉田松陰に松下村塾は欠かせないが、松下村塾は元々、天保十三年(一八四二)に父・百合之助の弟である、玉木文之進が創立したもので、杉家から三百メートルほど山道を下った自宅で塾を開いており、松陰は兄・梅太郎と共にそこに通い教育を受けていた。
十五歳で松下村塾に入門した渡邊蒿蔵(わたなべこうぞう)が、後に師である吉田松陰の印象について「背丈は高からず、痩せていて、顔色は白っぽく、天然痘のあばた痕があった。おとなしい人で、言葉遣いは甚だ丁寧だった」と語っており、塾生に親切で、誰も松陰が怒っている所を見たことがないという。
松陰が二十五歳の頃、海外渡航を決行したが失敗し投獄された。
一八五三年(嘉永六年/六月三日)、艦隊司令長官ペリーが率いる蒸気船四隻(黒船)が日本にやって来た。開国を迫ってきたペリーは圧倒的な技術力の違いを見せつけるために、いきなり大砲三発を威嚇発射したため、江戸は天地がひっくり返るような騒ぎとなり、幕府もすっかり沈黙した。(ペリー来航から明治維新までを”幕末”という)。
その頃、江戸に遊学していた二十四歳の吉田松蔭は、浦賀にやって来たペリーの黒船を見に行き、その蒸気船の異様な大きさと軍事装備を前に、日本の軍艦がいかに見劣りするかを思い知り、日本を強くするためには西洋の技術を学ばなければならないと痛感した。
それと同時に開国を迫るアメリカをはじめ西欧諸国に対し、
弱腰の対応しかできなかった幕府に失望感を募らせていく。
ペリーの黒船が再来航し、伊豆の下田沖に停泊しているところを、アメリカに行くために、同じ長州藩の金子重之助(重助)とひそかに船で近づき乗船したが、密航は認められず陸地に送り返され、仕方なく自首をして下田番所に連行され、投獄された。
安政二年(一八五五)に出獄を許され、杉家に幽閉の処分となった。幽閉中の安政三年(一八五六)三月、杉家幽室の松陰の元に来た高洲滝之允を初塾生として迎えた。
安政四年(一八五七)十一月五日、父・百合之助と、当時松下村塾を主宰していた久保五郎左衛門の二人が、杉家母屋から十五メートルほど離れた畑にある物置を改造して、八畳一室の塾舎を建て、松陰はここに引っ越し、寝起きもして塾生を指導した。それが国指定史跡として今も残っている松下村塾の建物である。
その後、松陰は再度野山獄に投獄されるのだが、松下村塾での教えは、再度投獄されるまでのわずか二年九ヵ月間だった。その短い期間での塾生数は九十二人であったと言われており、その塾生たちが日本の歴史を変える主役となった。
松陰の尊王攘夷思想が激化し、老中・間部詮勝を暗殺するための間部要撃策を立てたが、親友である、中村道太郎・栗原良蔵の説得により襲撃までには至らなかった。
だが、幕府に対する過激な発言や暗殺計画を立てる松陰が幕府の怒りを買い、毛利家が窮地に追い込まれることを恐れ、周布政之助は松陰を投獄した。
また、松陰の間部要撃策を止めるべく、中村道太郎・栗原良蔵を松陰の説得に行かせたのも周布政之介であった。
その後、松陰は江戸に送られ刑死することになる。二十五歳の投獄以降、三十歳で落命するまで、牢獄生活と自宅軟禁を強いられ、ついに自由の身になることはなかった。
吉田松陰「尊王攘夷の思想」
吉田松陰は過激な思想の持主というイメージがあるかもしれないが、
元々は過激な尊王攘夷(尊皇攘夷)派ではなかった。
そもそも松蔭の家系は、武家の棟梁である将軍(幕府)のもとに、松蔭が主君と仰ぐ毛利家があり、松陰は毛利家の禄を食む家臣であって、武士として幕府に恩を感じていた。
ただ松蔭の考えは、一番上に天朝があるので、毛利家藩主にとって将軍は主君ではないともいい、自分は天朝のために命を惜しまないが、幕府に対しては敬あるのみで命は捨てないといってきた。
公武合体といえば、だいたいが幕府存続を願って、天皇にはお伺いを立てるだけで、幕府が大きな裁量権を持って国を動かす、幕府主導の公武合体論であるが、松蔭は「天皇があって、その下に幕府があるべきであって、幕府の独断専行は許されない」という考えのもと「朝廷主導の公武合体論」を唱えてきた。
そんな中、日米修好通商条約の締結をアメリカから強行に迫られた幕府は、
天皇の勅許を取ろうと奔走していたが、朝廷は勅許を出さなかった。
しびれを切らせた大老「井伊直弼」は、ついに勅許なしでの調印を決断した。
この条約は自由貿易をうたっていたものであったが、
関税や裁判権などで日本が至って不利な不平等条約であった。
天皇の意向を全く無視した井伊大老の行動に吉田松蔭は激怒し、
その怒れる心のままに、藩主・敬親に「大義を議す」を建白したのだった。
このころから、吉田松陰の思想が激化していき、
将軍を「天下の賊」と断罪し、即時「尊王討幕」へと突き進んだ。
吉田松陰の名言・思想・教えから学ぼう
吉田松陰は、寝る時間を惜しんで本を読み、その本から感じたことなどを
書きとめたりと、自分の知識を高めるために常に学んでいました。
その勉強家な面に加え、ずば抜けた行動力も兼ね備えた人物でした。
なぜそんな強い精神力を保ち続けられたのか?それは松陰のもつ「志」によってだった。
「志を立てることから、すべては始まる」
志を立てて以て(もって)万事の源と為す
「志士とは高い理想を持ち、どんな境遇に陥っても節操を決して変えない人のことである。(中略) 志をひとたび立てたからには、人に助けを求めることもなく、世に救いを願うこともない。自信をもってこの天地を見渡し、過去と未来を見届けよう。何とも愉快なことではないか。君に仕えることを目標に志を立てれば、生涯、君に仕えるだけの人になる。国家に奉仕しようと思う人は、それだけで終わってしまう。だから自分は大人、すなわち徳のある人になることを人生の目標として志を立てた。自分を正しくして、天下を正しくしようと思った。そのために賢明に生きて、何の功績もなく死んだとしても、私は悔いることはない。(中略) 進む道が正しいか正しくないか、学問や仕事がうまく行くか行かないか、それは志を立てたか立てなかったかにある。だから士たるものは、その志を立てねばならない。志があればやる気もついてくる。意気込みがあれば、目標が遠くにあってもたどりつけないことはなく、難しくてできないということもない」
吉田松陰 「人を動かす天才」の言葉 31,32,33,34,ページ引用
一日に一つを記せば、年に三百六十を学べる
寝る暇を惜しんで本を読み、知識を高めていた松蔭らしい言葉。
今の時代には、様々な暇つぶしの方法があります。テレビを見るのも、ゲームをするのもいいかもしれませんが、果たしてその行動が、自分の志す人生に必要なことでしょうか?
毎日少しでも無駄を省き、その時間を自分の向上のために使う。
そういった一つ一つの積み重ねが、その先の人生を作り上げるのです。
一日に一事を記せば、一年中に三百六十事を得ん。
一夜に一時を怠らば、百歳の間三万六千時を失はん。「一日に何か一つを学べば、一年で三百六十の知識を得ることができる。一夜で一時間さぼれば、百歳まで生きたとして三万六千時間、じつに四年余りの時間を失うことになる」「万物を生んでくれる天地には大きな徳がある。そして君主や父母にはこの上なく大きな恩がある。この天地の大徳に報いるのに真心をもってし、君主と父母の恩に身を尽くして努力しなければならない。なぜなら、今日という日は二度と戻ってこない。人は一度死ぬと復活することはない。よって一日、いや一刻さえ疎かにしてはならず、知識を積むために勉強に励み、また天地の大徳に感謝し、君主・父母の恩に報いるために、少しの時間も無駄にしてはならない」
吉田松陰 「人を動かす天才」の言葉 96,97ページ引用
読書して学んでも、行動しなければ意味がない
吉田松陰は、寝る暇をも惜しんで学び続けただけでなく、学んだ後には行動すべきだと常々語っており、行動に関しての言葉が多く残されています。
信義を尽くすために脱藩の罪を犯したり、日本を良くするために密航を計画したりと、当時では死罪であったにも関わらず、自分の心に素直でまっすぐな人物でした。
「読書によって道理を深く追求しながら、これを実際に考え、実行しない者は、弓で的を射る際、その大小遠近のすべてをくわしく知りながら、いまだに一度も弓をとって練習したことのないのと同じである。それでは弓を放ったとしても遠くまで届かず、的を射ることができないのはいうまでもない。だから、実行・行動することが重要なのだ。これは学問をばかりをして、行動しない者の戒めとすべきだ」
「聖人・賢人の貴ぶところは、議論ではなく実行だ。つまらぬ他言を費やすより、至誠を積み蓄えるがよい」「知を学問で得ても、行いを廃した知は真の知ではない。また行いばかりにとらわれ、知を廃するのも真の行いではない」
「男としての見せ場は、一度決めたことは実行することにあり。冨嶽(富士山)が崩れようと、刀水(利根川)が涸れようと、誰がこれを変えられようや」(黒船に乗り込み密航しようと計画した際、友人に止められたときに述べた言葉)
吉田松陰 「人を動かす天才」の言葉
43,67,175,176ページ引用
常日頃から、志・学ぶ姿勢を忘れない
吉田松陰は、志や行動力が素晴らしいだけでなく、持続力・継続力・忍耐力にも長けた人物でした。それは松蔭の生涯が恵まれていなかったからとも言えます。
順境は怠けやすく、逆境は励みやすい
境の順なる者は怠り易く、境の逆なる者は励み易し。恵まれた境遇にある者は怠けやすく、不遇な境遇にある者は励みやすい。怠ける者は道を失い、励めば道を得ることができる。これが人の世の常である」
吉田松陰 「人を動かす天才」の言葉 60,61ページ引用
やらなければならないという窮地に立たされ、やっと重い腰を上げた経験が皆さんにもあるのではないでしょうか?今まで怠けていたがために招いた結果ということが大半だと思います。
逆境は「やらなければならない」という気持ちにさせてくれますが、
順境でもその気持ちを忘れず、常に学び続けることが重要です。
松陰の死後、今の時代に名言や思想が伝わっているのは、松蔭が書き残していた書物が残っていたからですが、松陰は「書くこと」を大変重視していました。
人の話を徒らかに聞かぬ事と、聞いた事見た事、
皆書き留め置く事、肝要な心得なり。「人の話をひたすら聞くだけにせず、聞いた事、見た事を皆、
書き留めておくことが肝要である」「旅立ちにあたり、ノートを二冊つくり、一冊は日記として出発から家に帰るまでの事を、日を追って記録する。もう一冊は雑録として、見聞の事柄、自分の心得になる事、道義心のある操高い人などの名をこまめに書いておくとよい。見た事を見捨て、聞いたことを聞き捨てにするのは、小児の寝物語と一緒で、取るに足らないことだ」
「今年抄録した箇所が、来年になればこんな所をなぜ抜き書きしたかと愚かに見える。その翌年にまた抄録すると、前年のものが愚かに見える。それだけ年々、自分の知識が向上している徴だ」
吉田松陰 「人を動かす天才」の言葉
54,55ページ引用
皆さんは日記を書いているでしょうか?
面倒と思う方もいるかもしれませんが、記録しておくことで後に役立ったり、書くことによって気づくこともあります。まずは日記をつけることから始めましょう。
吉田松蔭の名言・思想・教えから学べることはまだまだたくさんあります。
この記事では吉田松陰のごく一部を紹介したに過ぎません。
松蔭の歴史についてや、草莽崛起や大和魂についての名言、刑死する前の背景や気持ち、高須久や涙松についてのこと、高杉晋作や桂小五郎のことなど、まだまだ書き足りないのですが、あとは本などで学んでいただければと思います。
では最後に一つ。
吉田松陰の教えを学べば、あなたの人生は変わるかもしれない
天下の英才を育するは必ず鯫生より起る
「天下の英才はきっと僕の元から育つ」吉田松陰 「人を動かす天才」の言葉
141ページから引用
吉田松陰 「人を動かす天才」の言葉 には、吉田松陰の歴史的背景なども
詳しく記載されており、どういった経緯でこの言葉を発した (書いた) のか?
どんな思いだったのか?といった、松陰の思いや背景も見えてくる本で、
学ぶことはもちろん「吉田松陰の歴史について詳しく知りたい!」
という方にもオススメできる本です。しかも安い。
また、覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰 からも多少参考にさせて頂いてます。
この本は、吉田松陰の歴史についてはあまり書かれていないため、
どういった経緯で発した言葉なのか?ということはあまりわかりませんが、
吉田松陰の名言・思想・教えを現代の方にも読みやすいようにした本です。
おとなしく、言葉遣いが丁寧だった、温かみのある吉田松陰の言葉で、
本当に語りかけられているような気持ちにさせてくれる本です。
おわりに
吉田松陰をもっと知るためには「言志四録」も一緒に読んでみることをオススメします。
言志四録とは、佐久間象山の師である「佐藤一斎」の著書で、
吉田松陰は佐久間象山の教えを受け、佐久間象山のことを絶賛しているからです。
「言志四録」は、今の現代社会の基礎を作り出したと言っても過言ではありません。
吉田松陰が佐久間象山(佐藤一斎)の教えをどのようにくみ取り、
どのように後世に伝えたかを知るのも、また学びの一つとなることでしょう。
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